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死にたい

死にたい。死への吸引力を感じ、睡眠薬の量を少しずつ増やし緩慢的な自殺を行動に

投稿日:2018年8月16日 更新日:

私は現在50歳です。私の人生が転落しはじめたのは、20歳の頃です。

 

なんとか中程度の都内の大学に入学し、どこかの企業に属し、将来はサラリーマンになって、細やかな家庭を育み、幸せになることが夢でした。

 

しかし、私が大学に入ると同時に、父と母が離婚、おまけに母と姉が私を頼って上京してきました。

 

もともと両親の仲は悪かったのですが、母はそのきっかけを待っていたようです。母は私と姉と三人と強い絆で結ぶことによって、その後の人生を生きようと考えていたようです。

 

私が大学三年のときに授業料を振り込めず、結局大学は退学しました。原因は、父が「おまえは母と会っているんだろう?」といい、夜逃げ同然に家を出た母のことを赦してはおらず、大学の授業料は父が出していましたから、一切の仕送りが止まってしまいました。

 

それからアルバイト生活がはじまります。

 

私は元来極度の不安神経症、対人恐怖症、赤面症であり、体も弱く、背も学年でいちばん低い、スポーツもダメ、友達ができない、からかいの対象、どこへ行ってもいじめられるタイプ、ダメダメダメダメ連発の最低人間でした。

 

勉強もまったくできなかったのですが、それでもなんとか勉強をしました。そして、大学に入って、企業に就職する、ということが私の夢でしたが、それが潰えました。

 

就活をしましたが、中途退学ということで、どこの企業も雇ってはくれず、明らかなコミュ症面に、アルバイトさえも悉く落ちる始末。ずっと工場で働いていました。

 

「やはり大学を出なければ」と一念発起して、大学にもう一度入り直し、卒業しましたが、そのとき28歳です。30歳までには就職したかったのですが、就活はすべて失敗に終わりました。

 

私は再び工場のライン場のアルバイトに足を向けることになります。

 

中学生の頃から毎日「死にたい」と思っています

実際に自殺を試みたことは、実をいってないのです。ただ、中学生の頃から、毎日「死にたい」と思いつづけています。

 

死にたいと思って行動したこととしては、睡眠薬の量を少しずつ増やしていく、ということをしたことです。

 

精神科に通ったことが2度あります。結局薬を渡されるだけなのですが、通うたびにどんどん新しい薬が処方され、その量が増えていくのです。私はそれが緩慢的な自殺なのだ、と考えました。

 

そして医師がそう望んでいるのなら、このまま薬漬けになり、廃人になって、死んでしまってもいい、と思いました。薬をやめたのは、精神科医のことを信じられなくなったためです。

 

話をしていても、この方は私の苦しみを少しも共有してくださっていない、と感じていました。私は死ぬ身なのですから、私は先生もいっしょに死んで欲しい、と思っていました。言葉だけでもよかったのです。

 

私は「一緒に死んでほしい」と、恋人ができるたびにいっていましたが、もちろん誰も一緒に死んでくれる人などいません。

 

「結局一人で死ぬんだな」と思った時、私は猫を飼い始め、精神科の通院をやめました。同時に薬も辞めることになったわけです。

 

死への吸引力みたいなものは常に感じていますが、直接的な欲動はありません。私は弱い人間なのだと思います。

 

マイナス要因が全て家庭に。家庭環境の歪みで精神的不調になった

私の場合は、何か原因があって、というより、もともと家庭環境が歪であり、両親の不仲を見て育ったことが、精神不調の原因です。

 

家は貧乏で、6畳一間に家族5人で住んでいました。

 

幼少期の頃は、父が兄を血まみれに殴る光景を見ながら育ちました。暴力、賭け事、酒、窃盗、カルト宗教、家事放棄、家出、浮気、マイナス要因となるものがすべて家庭には揃っていました。

 

私が考えるのは、暴力というものの恐ろしさです。なぜ、父があれほど母や兄を残忍なやり方で殴りつづけていたのかわかりません。殴る、というより、膝蹴りや、踵蹴りのような形で、6畳間の畳の上に血の水溜りができました。

 

パトカーが家に何度もやってきました。

 

母はだんだん狂っていき、一度包丁を手にして、父を殺そうとしました。

 

「俺を殺して、子供はどうするんだ?」と夜中に父がいう声が聞こえて、母が「子供も殺す!」といった声が響きわたりました。

 

このとき私がはっきりと思ったことがあります。

 

私と言う人間は、一人の人間ではなく、父や母の所有物なのだな、ということです。私は私として生きることはできなく、父や母の一存で無為になる存在なのだ、と悟ったのです。10歳でした。

 

学校でも、友達ができず、いじめを受け、苦しかったですが、家にも居場所がない。私は家出をし、当時住んでいた田舎はよく雪が降っていたので、雪の中をどこまでもひとりで歩いていきました。

 

私はこの光景を、50歳になった今でも、毎日瞼の裏に思い描きます。

 

10歳でしたからわかりませんが、あれが私がいちばん最初に自発的に死を予感し、体感しようとした経験だったのだろうか、と思っています。

 

芸術に出会い、死にたいという気持ちに変化が…

私は何もできない子供でしたが、小さい頃から粘土作りや工作などが好きで、創作することが好きでした。中高時代は音楽にのめりこみ、家が貧乏でしたから、ステレオデッキなどは買ってもらえませんでしたが、小さなラジオにかじりつき、音楽に夢中になっていきました。

 

それからちょっとしたことで、美術の先生に彫刻を褒められ、美術にも興味を持ち始めました。美大に行こうか、と随分迷いましたが、生きることの不安から、私は普通の大学を選択しました。

 

大学に行くことすら、父は反対していましたから、美大などに行きたい、といったら、行かせてくれなかったでしょうし。大学では、皆がコンパだ、飲み会だ、といっているのをよそ眼に、読書に耽りました。

 

文学に開眼したのがこの頃です。そして映画もよく見るようになりました。

 

レンタルビデオ店が繁盛し始めたのがちょうどそのころで、映画館に行かなくても、古い名作が格安で見られるようになったのです。

 

私の家にはまったく教養というものがありませんでした。本棚がなかったのです。10代まで、私は本屋に行ったことがありません。私は大学に入ったときに、初めて「知」というものに目覚めたのだと思います。

 

しかし、これも授業料が振り込めず、大学を中途退学し、私はアルバイトを転々とする生活になるわけですが…。

 

しかし、今でもこれらの芸術に触れる機会は、私にとってかけがえのないもので、いわば芸術とはこの世界にありながら、この世界の外を映しだすものです、「ここが私のいる世界だ」と思い、今もそう思いつづけています。

 

自分だけのかけがえのないものを見つけましょう

死ぬことはいつでもできると思うのです。死んでしまえば、確かに楽になるかもしれません。

 

私は小さな頃から死への願望がずっとあるのですが、なぜ直接強く死へ向かわないのかというと、芸術に出会ったためです。

 

芸術作品、たとえば文学作品などには、自殺する人間や、死に憑りつかれた人間などがたくさん出てきます。

 

しかし、死ぬことよりも、死を通して見えてくるものごとを見つめることのほうが、私は大事なことだと思っているんです。それを多くの芸術家たちから学びました。

 

もちろん自殺していく芸術家たちもいます。しかし、彼らもとことん死とは何かを考えた果てに死んでいった人たちです。

 

私は芸術というものに、この人生に出会いましたが、たとえば家庭、子供、自分だけが持つかけがえのないものを見つけた人は、決して死ぬことができないはずです。

 

少し穿ったものの言い方でいうと、死にたい、という気持ちは、ひとりよがりで自己中心的なものであり、そこに他者の視線がありません。

 

わたしは生きることにおいて、よいことでも、悪いことでも、とにかくまず相手を優先して考える、ということを念頭に置いています。これはなにも相手を持ち上げるという意味ではありません。そういった俯瞰的な視線に立つと、死というものがもう少しいろんな現実の網目のものと繋がっていることが見えてくると思います。

 

「死にたいほどつらい」と思ったとき、その「死」の実体について紐解いていくと、死というものが生に含まれているものであることがわかってきます。

 

つまり、私がこんなにひどい有様、50代、中高年フリーター、家族なし、友達なし、でも死なないのは、死というものが強者からの洗脳のように思えて仕方ないからです。

 

死なないことが、何も持ち得ていない私が唯一この人生で成し遂げることのできる、たったひとつの力だと思っています。

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